囲炉裏


畑仕事

山 林



骨組み

 學而舎所在地まで片道60キロの道を1980年から20年間をかよいました。そして
多くの人がここを訪れてくれました。合宿・セミナー・レクチャーと集まりが持た
れました。しかし年そうおうに世間的な事情がふえ、余裕がなくなり、學而舎に出
向くことが途切れがちになり、建物と環境維持管理が滞り今に至っております。
 施設と山村での生活空間が一体とならなければ意味のないものと固持しておりま
すので、その折りあいがつく時が訪れるのか自身が楽しみにしております。
 農家であったこの家での山村生活の実体験を第一と試みた、そのいくつかを紹介
いたします。(この記録は1980-2000の間)
                                      
             
         
  




 むかしから人の住んでいたところは、水の涸れることのない水源があることがな
によりも条件でした。しかし、万全の保障があるわけではありません。飲料水・炊
事・洗濯・風呂等に使う水の貯水施設の管理維持も大事なしごとです。ある水の量
補ってゆくのが基本姿勢ですが、やはり水使用が快適なことにも努力すべきです。
 あるときは、簡易水道の水が止まりました。どうしたのか原因が分かりませんで
した。しらべたら貯水槽に水を取り込む管からモグラが侵入、途中のバルブにつか
えてしまい、水の流れが止められてしまいました。何事もおこります。


             
             
 




 茅屋根の材料からの勉強、小茅と呼ばれているカリヤス(ススキ属)の見分け方。
この小茅はケイ酸度が高く最高級材料なのだと、茅場の確保・刈る時期・乾燥等々。
カヤ刈り作業時期の判断、作業工程の中で一つでも手を抜くと、屋根葺き前の茅の下
仕事作業のどこかで時間と材料を無駄にする。材料確保でさえこれだけの手間がかか
る。かつては集落ごとに、茅無尽と言う結い制度があり、すでに茅屋根ではなくなっ
ているが、最後の無尽を最近までお米で代替し払ったと、茅場の近くの農家のおばさ
んが話してくれまた。
 小さな傷みの刺し茅は自分でも出来そうだが、大きな修復や葺き替えは屋根職人に
お願いをする。 この時の使う茅作りの下仕事も半端ではなく大変な作業である。よう
やく茅葺きである。そして、ここにも屋根を葺き上げる、沢山の知識と知恵と技がい
っぱいにある、屋根職人のすごさを見ました。 屋根葺きを知った盛岡の友人が南部鉄
の昔の屋根針を送ってくれました。信州の屋根やさんは、これを使っていたく感心し
てました。
 この家の屋根裏にも沢山の立派な丈の茅がどっさりと確保されておりました。長く
お世話になったお二人の茅屋根さんも既にいなくなりました。



                          
                    





 煤で黒くなった骨組と土壁です。家の真ん中に当たる場所で囲炉裏の上部です。材
に贅を尽くすといったふうの家屋ではありませんが、材木を素直に使いこなしてあり
ます。一般的な農家の造りですが、冬には日が家の奥まで届き、夏には縁側までで日
が遮られると云う配慮もあります。置き石の上に土台が乗り、外壁は柱の 数が多いと
いう古い時代の作りですが心地よい空間で構成されていました。建物の話は尽きると
がありません。


                    
                           



  この集落に生まれ育ち暮していて、離村・離農していった村人が使っていた田や畑
や茅場に、杉の植林をした所がたくさんあります。 學而舎に通い始めた頃は、まだ木
も植えられて数年といったところで、日もさんさんと地面にそそいでいました。
 この家の家主であったおばあさんは、春から秋まで時があれば、町からここまで数キ
ロの道を歩いて通い、一日を畑仕事、山仕事で楽しそうに過ごし、夕方にはまた町の家
へ歩いて帰ってゆきました。このおばあさんは、春には雪で倒れた若木の、木おこし作
業を一人で一生懸命にしていました。若木の下草刈りも女性の仕事でしたし、この頃す
でに町に下りた人達の間では、山の木々に男衆の手は回らなくなっていたのでしょう。
 手の入っていた山の周りは、春に秋に山の自然の幸が約束されていまた。だが人手の
なくなった山は二十年ぐらいの内に若木は大きくなるし、それより以前に植えられた木
はより大きくなり枝葉が茂り、地面には日が当たらず、地表の土目は落ちた枝葉で厚く
隠されてゆきます。
 昔、利用された山道は薮で跡かたもなくなり、山はただ鬱蒼としたものになってゆき
ました。機械力での自然破壊も悲惨ですが、自然の回帰力もたいしたものです。ただ、
人手をかけて植えられ見放された木々は、自然災害には案外弱いように見えます。 一
度だけこの集落のずっと奥にまで索道を架け杉や栗の大木を伐採して、材木を出してい
た事がありました。



             




 畑仕事も醍醐味の一つです。ここは県北部に位置し標高が800mあります。 春の植付
けは遅めに、秋の種蒔きは早めにお盆頃と、その土地柄にあわせた畑仕事です。手を掛
ければかけただけの成果が上がります。
「動く土の作物は旨い」とい言われている場所があるくらいで、ここもそうです。粘土
層の土目は乾いても濡れても仕事は大変ですが、出来る作物にはアクが少なく、それぞ
れの作物の持ち味を十分に引き出した、元気な物が出来上がります。
 山間は人の出入りも少ないので、人の運ぶ病虫害も少ないと言われます。今を盛んな
蕎麦一つとっても、昔からの品種は肥料が全く無くても、余分に有っても駄目、背丈は
高からず低からず収量多く作る蕎麦の栽培も、その土地のお年寄りにはかないません。
 春から秋までは、尽きる事のない雑草とのたたかいですが、毎年沢山のおいしい野菜
が出来ました。



               







 赤々と燃える楢の薪、火床には沢山の熾、自在鈎にかかった大きな鉄瓶が白い湯気を
出しています。 話がとぎれて静かになった時の薪のはぜる音、冬夜の語らいにこれ程
の演出効果はありません。この囲炉もかつては、暖を取り、湯を沸か茶を飲み、事賄い
をし、食事する場所であり、そして客寄せの場でもあったのです。
 もう一つ大事な事は、囲炉裏は茅屋根には 無くてはならない防虫・乾燥・煤コーティ
ング機能なのです。枯れたボヤや、晩秋に落ちる杉の 葉を集めておき、焚きつけにし、
乾いたナラやクヌギを燃料にします。 囲炉裏を快適に使うには、やはりそれなりのルー
ルが必要です。山での生活は町から来ると常に知識と知恵と労力の総動員です。
 ひとつ面白かった事は、楢の出来上がった薪などは、村より町のほうが低価で確実に手
に入りやすかった(1980年代頃)ことです。村社会のほうが一様に様変わりすることがあ
るようです。


 
                       




 雪にこと欠かない地域です。それでも近年は雪の量も少なくなってきています。だから
と言って、これからは降らないという保証はありません。
覚えているのは1981年の暮れの豪雪です。いつもなら車を降りて1分もあれば玄関ですが、
この時は玄関まで半日かかりました。まだ家の設備が万全でなく、硝子戸はわれ、そこい
らじゅう隙間だらけだったのでした。雪の多さに地下に入るような出入り口一か所を除い
て、家まるごと雪の中でした。寒い正月を思いのほか暖かく過ごし、まるで雪山での雪洞
合宿のようでした。
 雪というものは厄介なものです。暖かくなれば融けてなくなるのですが、冬は長いので
す。屋根雪が2メートルぐらいは雪国の昔の建物は何ともありません。しかし、この雪が
一日一日の寒暖の繰り返しで、屋根の降り積もった雪が動き始ると、凍り付いた茅も引っ
張られます。もちろん雪おろしは済ませてあってもです。より暖かになると、屋根雪が下
がり始める時に、以前の屋根雪が片づけられていないと、屋根雪と降ろされていた雪が弓
状につながります。これをほっておくと、温度が上がり地表の雪が解け始めると、繋がっ
た屋根雪がひかれ茅の庇を壊します。これは學而舎の例ですが、しっかりと頑丈に組まれ
た差掛けの屋根が雪の引っ張る力で、長さ四間にわたり崩壊しました。雪が降ったら雪お
ろし、雪片づけはなんとも必要な作業です。降った後でも、雪の作り出す力も半端なもの
ではありません。


 
          

           
 
             
  
              
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ
              
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。 
 ・・・三好達治     

       




                                           


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